日本の近代俳句の起源は、明治時代の俳人である正岡子規に遡ります。
江戸時代の俳人である松尾芭蕉や与謝蕪村の俳諧や発句に親しみ、それを研究し、俳句の革新運動を精力的に進めたのが子規です。
子規は生涯に約20万もの句を詠み、その中で最も有名な句とされるのが「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」です。
もしかしたら、この句を知っている人もいるでしょうが、その作者である正岡子規の名前は知らないかもしれません。
今回は「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」について、季語や意味、表現技法、鑑賞文、作者に関する徹底解説を行います。
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「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の意味とは?作者や季語は
柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
(読み方:かきくえば かねがなるなり ほうりゅうじ)
この句の作者は正岡子規です。
正岡子規は、和歌や俳諧など国文学の研究に従事し、明治時代の文学史において近代の短歌や俳句の基盤を築いた文学者として著名です。
この俳句の季語は「柿」で、季節は「秋」です。柿は奈良・大和の名産品であり、「御所柿」として知られる甘柿は江戸時代から存在しています。正岡子規は柿好きで、特にこの御所柿を非常に好んでいたようです。
この句の意味を現代語に訳すと、「柿を食べていると、ちょうどその時に法隆寺の鐘の音も聞こえてきたことだ。」となります。柿という秋の果物を季語に取り入れ、秋の到来を感じていることを表現しています。
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「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」が詠まれた経緯
この有名な句が初めて発表されたのは、明治28年(1895年)11月8日号の「海南新聞」でした。
この句の前書きには「法隆寺の茶店に憩ひて」という言葉があります。つまり、この句は奈良の法隆寺を旅行中に立ち寄った茶店でくつろいでいるときに詠まれたものです。
正岡子規は、明治28年10月下旬に奈良を訪れた際にこの句を詠んだとされています。彼の随筆『くだもの』には、奈良の宿で女中が柿をむいてくれたエピソードが記されています。それを読むと、この句が生まれる前夜の出来事が描かれています。
「(前略)やがて柿はむけた。余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。彼女は初夜が鳴るといふて尚柿をむき続けてゐる。余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。」
柿を食べている最中に、予想外にも鐘の音が聞こえてきたという子規の感動的な体験は、宿で過ごした夜に起きた出来事でした。
この感動や驚きを元に、子規は法隆寺の茶店を舞台にしてこの句を作り上げました。
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「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」で用いられている表現技法
この句で使用されている表現技法は・・・
- 二句切れ
- 倒置法
- 体言止め
になります。
- 二句切れ: 句の中で、「かな」「や」「けり」などの切れ字がつくところ、もしくは意味上、リズム上大きく切れるところ(普通の文であれば句点「。」がつく箇所)を句切れと呼びます。この句は「柿食えば鐘が鳴るなり」で一度分が終止し、「。」がつきます。二句目にあたるところで切れるため、「二句切れ」句となります。
- 倒置法: 倒置法は、言葉の順序を普通の並びとは逆にする表現技法で、意味を強める働きがあります。この句は、普通の日本語の順序でいえば、「柿食えば法隆寺では鐘が鳴るなり」となるでしょう。そこを「鐘が鳴るなり」をあえて先に持ってくることで、折よく鐘の音をきたものだという面白みを表しています。
- 体言止め: 体言止めとは、文の終わりを体言・名詞で終わることで余韻を残したり、印象を強めたりする表現技法のことです。この句は「法隆寺」という体言で終わっています。古都、奈良を代表する寺であり、奈良らしさを強調しています。