社会

お母さんの請求書(道徳)あらすじ・意見感想まとめと何が問題点か

どうも、颯介です!

今回も日常生活の出来事のなかで気になったことについて、独自の視点でどんどん切り込んで行きたいと思います。

それでは、さっそくまいりましょう!

さて、今回取り上げるのは、小学校の道徳教材『お母さんのせいきゅう書』についてです。

「国や郷土を愛する態度」、「家族愛」、「節度・節制」などについて、考え議論することを目的として道徳が2018年4月から小学校で教科になります。

また、2019年4月からは中学校でに教科になります。

このことを受けて、昨日2018年4月23日には、NHKのテレビ番組『クローズアップ現代』で、特集番組が放送されました。

その番組の取材のなかで、『お母さんのせいきゅう書』という教材が出てきました。

番組の放送後、この『お母さんのせいきゅう書』の内容について、様々な意見が交わされていましたので、今回『お母さんのせいきゅう書』のあらすじや交わされている意見や感想についてまとめてみました。

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『お母さんのせいきゅう書』のあらすじ

まず、「お母さんのせいきゅう書」

小学校3年生のたけし君は、おこづかいを毎月300円もらっています。

そして、定期的にお小遣いをもらっていない代わり、家のお手伝いをする度にお駄賃をもらっている友達を見て、たけし君はその友達のことがうらやましくなりました。

というのも、たけし君も度々家のお手伝いをしていたので、その度にお小遣いをもらうほうが得なのではないかと思ったからです。

そこで、たけし君は

『なにかお手伝いすることはない?』

とお母さんに聞いてみました。

すると、たけし君はお母さんから買い物のおつかいと留守番をすることを頼まれました。

たけし君はお駄賃をもらおうと、張り切って買い物をこなし、留守番のときには宅配便の荷物も受け取ったり、部屋の掃除もやりました。

たけし君の働きを見て、

『たすかったわ』

と喜ぶお母さんに対して、たけしはお手伝いのご褒美として、500円の請求書を渡しました。

お母さんは、にっこりして何も言わずにその請求書を受け取りました。

後日、お母さんはたけし君の請求に応じて、500円のお駄賃とともに、お母さんからの請求書を渡します。

そのお母さんからたけし君への請求書には、

優しくしてあげたこと 0円
病気の時看病してあげたこと 0円
ご飯を作ってあげたこと 0円

などと書かれていました。

たけし君は、500円をもらえたことに一瞬喜びましたが、考え直し、500円をお母さんに返しました。

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『お母さんの請求書』に対する意見や感想のまとめ

この話は、

・家族の無償の愛
・無償で奉仕することの素晴らしさ

などを説くことを目的があるように思われます。

この話に対して、ネット上では様々な意見が交わされています。

どのご家庭でもありえるシチュエーションなだけに、多くの方が興味関心をもっているようでした。

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『お母さんの請求書』は何が悪い?問題点は何か

『お母さんの請求書』の問題点は、母の無償労働やこどもの無償労働を当然とする価値観を押しつけている所にあると思います。

そして、お母さんが渡した0円の請求書にあざとさ・いやらしさ・押しつけがましさなどを感じた人もいるのではないでしょうか?

0円の請求書を渡すことによって、こどもに自分で考えさせ、答えを見つけさせようとしたのかもしれませんが、お母さんは、ある意味、0円でなくきちんと金額のはいった請求書を渡したっていいくらいじゃないでしょうか。

「0円の請求書」というアイディアが、この話の最も工夫されている点なのだと思いますが、女性の家事労働を軽視している感じがして、一部のお母さんにとっては釈然としない部分があるのではないかとも思います。

かといって、私自身の個人的な意見としては、

『何かお手伝いしてくれたらお駄賃』

というのは、当たり前に継続的にすべきではないとは思います。

たまにならまあいいかもしれませんが、それを当たり前にして子供を育ててはいけないと思います。

なぜなら、そのようにして育った子供は対価を得て行動することが当たり前だと思う人間に育ってしまうからです。

金銭的な報酬がないと動かない人間になってしまいます。

もちろん生活のために金銭を得るために働くということも大切ですが、それだけのためにしか動かないという人生は、自分自身を苦しめることになると思います。

金銭的な対価のみならず、

・誰かを助けてあげたい
・誰かのためになりたい

という動機から動けるほうが人間として素敵だと私は思います。

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母親の無償の家事労働は当たり前じゃない

また私は、

『母親の家事労働をしてもらって当然』

と思うのは違和感があります。

かといって、別にお母さんだって、金銭的な報酬が欲しいわけじゃないと思うんですよね。

ただ、金銭でなくとも、子供さんや旦那さんからの『いつもありがとう』という感謝の気持ちや『自分も手伝うよ』という気遣いという報酬があったほうがうれしいですよね。

「尽くすことが当たり前」という自己犠牲の価値観を当然として押しつけられるのは、お母さんとしてはとても苦しくなってしまいますよね。

自己犠牲の押しつけという意味では、以前問題になった「あたしおかあさんだから」という歌と共通する部分があるかもしれませんね。

「お母さんだから自分を犠牲にするのが当たり前」と言われると、お母さんが救われません。

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一番の問題は価値観を押しつけること

一番の問題点は、特定の価値観を押しつけることだと思います。

「無償の愛」というメッセージは、悪くはないですが、それは誰かに押しつけたり、押しつけられたりするものではありません

それを当たり前のこととして擦り込むのではなく、

受け取る側・尽くしてもらった側は、そのしてもらったことを当たり前とするのではなく、感謝の気持ちを持って欲しいですよね。

それと同時に、与える側・してあげる側は、相手を思う気持ちからやっていたとしても、してもらって当然という態度でいられるのは、辛いものがあると思います。

ほんの一言でも

「いつもありがとう」
「手伝おうか」

と感謝やねぎらいの言葉があるだけでもいいと思うんです。

たとえ金銭的なものでなくても、感謝やねぎらいが大きな報酬になるのではないでしょうか。

しかしながら、こうしたお互いを思いやっての行動は、相手を思う気持ちから自発的に自然に起るものであって、当然のものとして押しつけるべきではないと思います。

そもそも、特定の価値観の押しつけになることが危惧されてきたため、道徳の教科化はこれまで長く見送られてきたと言います。

価値観を押しつけていることが一番の問題ではないでしょうか。

今回もご覧頂いて、ありがとうございました。

それではまた!

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